未来予想図

 一時ごろに就寝したのだが、一時破水したというメールが来て、二時半に起こされた。体温が低下したという段取り通報が来ていたので、大みそかあたりに出産すると思っていたのだが、思ったより早かった。
 牛舎に着いたが、あまり産気づいている様子ではなかった。たまこのお産だったが、同室のタカラと見分けがつかない外部兆候だった。タカラも、お産が近いのかな?
 待てど暮らせど、全然進行しないし、陣痛がある様子もなかった。待ちくたびれたので、内診することにした。
 枠場に連れてきて、長い手袋をして直腸に手を入れてみたら、足しか触れなかった。頭はどこだ? 手をよく消毒して、内診したら、後ろ足だった。
「逆子だ。」
ちょっと緊張する。とりあえず、産道を刺激して息ませた。産科テープを足にひっかけ、全体重をかけて引っ張った。ビクともしなかったが、母親が息むと、少しずつ出てきた。
 5時出産。メスだった。猫車に乗せて、部屋に連れて行った。その後、たまこを部屋に連れ帰る。俺がそばに立っていると、遠慮してなめないのだが、ちょっと離れてみると、一生懸命なめていた。ちゃんとなめたかわかるように、大豆かすを振り掛けたら、きれいになめとってくれた。 
 へその緒を消毒し、初乳製剤を飲ませ終えたのは、6時ごろだった。
 一旦帰り、仮眠をとった。

 発情見回りから、仕事に参加した。
 ワクチン接種をしたり、湾放牧地では新設したスタンチョンに入る訓練をしたり、お産が近い母牛を連れ帰ったりしていたのだが、滑走路を横切るとき、雑草を食べている牛を三頭発見した。俺の放牧地と飛行場の境界は、飛行場の金網で仕切られている。ここに牛がいるということは、その金網が朽ちて、大穴が開いたということだ。
 黒島崎放牧地に移動させた。

 そうこうしている間に、タカラ(勝忠平)が雄子牛を出産した。宝太郎(安平幸)と命名した。

 今年は、いろいろ投資した年だった。
 まず、眠っていた哺乳ロボットを、水道管や電気配線をやり直して、動かした
 頭数が少なかった北海道時代ほど丁寧にはいかないが、あれに近い胃袋づくりをしたい。去年は、自分の目指す牛づくりが出来なくて、小さな牛を市場に持っていくのは恥ずかしかった。一年間哺乳ロボットの使い方にも慣れ、だんだん胃袋ができた牛が出来つつあり、ちょっと嬉しい。
 出産監視システム牛温恵を導入した。
 昨年は、3頭の子牛がお産事故で命を落とした。でも、監視システム導入後は、一頭もお産では死んでいない。投資したお金は、それだけで回収されたはずだ。さらに、生まれる日が予告され、一時破水で駆けつけ通報が来ることで、他の日は安心して眠ることができ、とてもありがたい。
 せっかく良い機械なのに、とても調子が悪くてストレスだった、大型トラクター・マッセーファーガソンを、鹿児島に送って修理した
 島から船で往復するだけで、十万円を超える運賃がかかるので、なかなか出来ないことなのだが、調子悪い機械を使っていると、寿命を縮めてかえって損をするのだ。
 インバータ着き大型扇風機を取り付けた。
 馬友達になった人たちが、吊り下げ工事を一気にやってくれ、俺は配線工事だけやればよかった。 敷料不足や堆肥舎の容量不足で、敷き藁を頻繁に交換できないこの牧場では、一週間に一度の敷き藁交換では床がドロドロになり、子牛が可哀そうだった。さらに、発生したアンモニアで、呼吸器系の疾患になりやすかった。
 大型扇風機を取り付けたおかげで、床は乾燥して、敷料交換の必要が無くなった。床が乾燥しているから、子牛が汚れなくなった。アンモニアが飛ばされるから、呼吸器疾患は減った。目に見える形での資金回収はできないかもしれないが、子牛が幸せになり、きれいな子牛になれば、それでいいと思っている。
 仕事は、やりがいを持って気持ちよく働きたい。
 連動スタンチョンを、電柱牛舎湾放牧地・大牛舎に一つ、設置した。
 特に、電柱牛舎に取り付けたスタンチョンは、出産直後の母牛管理がとても容易になり、その成果はきっと出ると信じている。
 他に、死亡を含めて、年を取った母牛を20頭を更新した。自家保留を含めて、11頭の若牛を導入した。
 その影響で、去年は66頭の子牛が生まれたのだが、今年は57頭しか子牛が生まれなかった。今年生まれた子牛は、みな俺が種付けしたものだから、技術不足が産児数の減少に影響しているのかもしれない。
 牧場を従業員さんに任せて、40日間の人工受精師の免許を取得しに行った。途中、従業員さんが体を壊したり、子牛が肺炎で死んでしまったり・・・。俺も、飛行機をチャーターして帰ったりしたが、苦労した甲斐ありなんとか取得できた。
 去年の6月に、タスクと一緒に牧場の未来予想図を作ったのだが、かなり出来てきたかな? 今年は、頑張ったぞ!