とうとうレーキが壊れた! ロール42個 親父の思い出

 朝からいい天気だった。早めに出勤して、ちょっとだけ牛舎を綺麗にした。子牛の鼻紋取りに来るからだ。人間の指紋のように、牛の鼻紋は一生変わらないらしい。シゲヨの母牛登録もする。

 フォードでテッターをかける。北山西斜面も、もうちょっとで乾草に仕上がる。
 ビクターの脱走ヶ所をチェックしたが、今日の所は大丈夫だった。

 南端採草地のテッターをかける。ほぼ完璧に乾いていたので、ロールをすることにした。クボタM8030が調子悪いので、いつものように、外周2周をレーキかけた後、ロールしてからレーキをかけるわけに行かず、苦労した。レーキも、8本ある腕のうち、5本が無くなってしまい、草が綺麗に集まらないので勿体なかった。
 だいたいこんなモンだろうと思うところで、フォードにロールベーラーを着けてロールを始めた。相変わらず、ヒモ切り機の調子が悪く、ロールが出来る度に毎回降りて、ロールを縛るヒモを切った。
 よく乾いた乾草だったので、いろいろ考え事をしながら作業する余裕があった。

 幼少の頃、親父を好きだった。市の空手の大会で優勝する親父が、誇らしかった。

 俺と親父の関係を悪くしたのは、小学校の新任担任教師だった。知能検査で、俺のIQがとても高かったそうだ。これは、親には教えていけないことになっている。ところが、興奮した担任は、
「東大も夢ではない天才だ!」
などと言ったらしく、それ以来親父のスパルタ教育が始まった。と言っても、タダ殴るだけだ。俺は元もと理科関係に興味があり、理屈が好きだったが、理屈を言うと殴られ、地理や歴史の本を読んでいると、
「そんなモン読んでないで、勉強しろ!」
と殴られた。そのうち、あまり家から出してもらえなくなり、勉強を強要された。暴力で勉強できるようになるわけがない。どうせ1番でないと満足してもらえないのだ。勉強嫌いになり、どんなに殴られても出来なくなった。悔しくて頭に入らなかった。

 それでも、地元の進学校くらいには入ったが、成績表が出される度に殴られた。450人くらいいる学年で、いつもビリから3番になった。どんなに勉強しなくても、それ以下にはならなかった。そして、どんなに勉強しなくても、理科だけはいつも1番だった。京大医学部に入った友人にも、生物では負けたことは無かったが、英語なんかたいてい10点以下だった(外国生活が長いので、今は英語がぺらぺらである。ウソ!)
 高校2年で家出をしたとき、俺が母親のことを覚えていることがわかり、ちょっとだけ殴られる回数が減った。高校3年の1学期の最後にまたしてもビリから3番の成績を取り、親父はようやく俺を東大に入れることを諦めてくれた。

 親父は本当に何も言わなくなった。志望校を決めたのは夏休みの終わりだ。(とても無謀な選択だったが・・・)俺は毎月ある模擬試験の成績が上がるのが嬉しくて、毎日3時間睡眠で勉強した。2学期が終わる頃には、共通1次試験の過去問題で、合格圏ギリギリまで取れるようになった。2次の筆記試験では、生物と化学は全国模試で偏差値がそれぞれ80以上(あるんです)と75(満点ってこと)だったので、1次試験さえ取ればなんとかなると思っていた。

 大学に入って、始めて手にした自由に、俺はどうしていいかわからなかった。理科以外のすべてのことに自信がなかった。そこで出会ったのがモトクロスだった。やっと自分が自信を持てることに出会い、バイトでもバイト頭をやれるくらい頑張った。
 もう、あの家には帰りたくなかった。妻との結婚の時、親とは縁を切り、俺は消息不明になった。
あの担任の、軽率な一言がなければ、違った関係を築けたかも知れないのに、悲しい思い出だ。

 夕焼けが綺麗だった。我が家は谷間にあるので、牧草作業中だけ、海に沈む夕日を見ることができる。日が暮れる前に、42ロール作ることが出来た。

 明日の夜中、掲示板の開設予定なのだが、既に200人近くの人が見に来ている。みんな、言いたいことが沢山あって、待ちかねているのかな?
 俺の鬱の調子がとても悪いし、仕事が忙しいから延期なんて言ったら、怒られるかな?
 ぜひ、厚生労働省 平成18年度診療報酬改定の基本方針に目を通して、待っていてください。