テッターをかけに行く 母と姉の記憶

昨日作った掲示板ですが、管理上のチェックや、管理方針をもう少し明確にするために、水曜日まで時間をください。(記入されたものについては、投稿を削除したことまで含めて、全部データが残ってしまいます。)
 
 今回のサイレージ乾燥計画は上手くいっており、ほとんどかびることなく使えている。空気が乾燥していると、管理が楽だ!
 昼飯前に、採草地南端のテッターに行った。刈りとった草の下の方は緑色だが、表面の草は茶色に変色していた。今年の一番草は、天気に恵まれなかったな〜と思いながら走っていたら、カイトが弾丸のように走ってきた。止まって降りてやると、俺のまわりを凄い速度でグルグル回ってはしゃいだ。何がそんなに嬉しいのか?飛びかかって、ひっくり返って腹を見せ、ゴロゴロ転がる。行方不明になったとき、見つけてくれたS先生と、保護してくれた酪農家に感謝!
 
 ビクターが、また電気牧柵を千切ってしまい(電気が通っている)、馬が全頭脱走していた。頭にきて、トラクターで追い回して、柵の中に追い込んだ。
 
 午後から調子が悪く、仕事が出来なかった。やっとの思いで、夜牛舎だけは終わらせた。
 
 母と姉のことを思い出す。
 40年前、母は家を出された。俺は2歳半で、母の記憶はあまりない。自転車の子乗せから俺を落として親父に殴られた映像の後、ケガをした母が入院していた映像があり、新しい貸家に、姉と俺とおやじのスクーター3人乗りで引っ越ししたとき、義母が満面の笑みで迎えてくれたのを、古い映画のように思い出す。
 姉はダウン症で生まれつき体が弱く、やっとしゃべれるようになったら、脳性小児麻痺になり、右半身不随になってしまった。母は、一生懸命世話をし、「パパ、ママ、ラーメン」の3語だけは発音できるように訓練した。可愛く見えるようにパーマをかけたり、弟の俺に優しくするように随分言ってくれていたようだ。
 俺を左手で呼んで頭を撫でてくれた記憶がある。一時はしゃべれた姉だったが、訓練する母はいなくなったので、手真似だけで俺としゃべるようになり、紙に鉛筆で何かを書いて、1日を過ごしていた。
 腹違いの妹が生まれ、姉は施設に入った。年に2回帰ってくる姉は、俺を可愛がることは忘れなかった。そのうち、心臓病を併発し、家に帰ってくることは無くなった。時々会いに行くと、高校生にもなった俺を、抱きしめて頭を撫でてくれた。(もちろん恥ずかしかったが、我慢した。)
 大学に行き、俺はずっと実家に帰らなかった。母とは再会したが、再婚して弟が2人いた。俺の結婚を喜んでくれ、成人した弟の1人を俺に会わせてくれた直後に、くも膜下出血で倒れた。俺は母が脳死になった時点で、やっと会うことが出来た。
 母の墓参りに帰った時に、施設にいた姉に十数年ぶりに会いに行った。姉は、家にいる頃には考えられないくらい明るく元気だった。半身不随の姉が、もっと重傷の障害を持った人の食事の世話を、嬉しそうにしてあげていた。30過ぎの俺を見て、抱きしめてくれた。
 こんなに優しく世話好きな人はなかなか居ない。
 姉は、施設に入ることで人の役に立ち、それなりに幸せにくらしていたのだ。自己流の手話で、養護師の人たちと冗談を交わしながら、とても活き活きして見えた。
 母が亡くなり、姉に最後にあった年の秋、転職の挨拶をしているところに電話があった。「姉が死んだ。」と。母に呼ばれるように、逝ってしまったのだ。
 それ以来、九州には帰っていない。今日は、なぜか突然、母と姉のことが思い出されてしょうがなかった。
 あの優しい姉の性格は、生まれてから母と別れるまでの数年間に、母からもらった愛情と教育に基づいている。俺に優しくすることを母に誉められ、人として認められたという記憶が、三十数年の生涯を閉じるまで、そのまま保たれたのだと思う。亡くなる前に、家では見られなかった、活き活きした姉を見ることができたのは、俺にとって救いだった。あれほどの障害を持ちながら、人に優しくする喜びを持ち続けてくれたことに、俺は感動した。