育児サポート 小脱走 うつ病の話

 朝牛舎にいったら、浪二郎のところに、巨大な黄色い運古が落ちていた。
「下痢か?」
心配したが、全然元気だった。その後の運古は、いい状態だったので、たまたま一気に出たのであろう。
 
 娘の育児サポートをしてくれる母さん方が、打ち合わせに来てくれた。何の得もないのに、我が家の惨状を救うために集まってくれたのだ。より具体的に、妻の退院の日の行動や、育児日記の交換、おしめを替えるタイミングその他いろいろ話しあってもらった。
 俺はサポートを受けている間に、機械作業などや、糞出しなどをやることが出来るのだ。
 
 カイトが吠えるので外を見たら、牛達の巨体が道をふさいでいた。妊娠鑑定が取れていない牛の群(未経産の妊娠牛も含まれる)が、脱走したのだ。トラックで、隣に向かう道をふさぎ、長鞭を持って追い込みにかかる。単なるゲートの閉め忘れだった。
 
 町に出かける用事があったのだが、知り合いの方に会ったので、Mikiの乳ガンや、娘の育児、俺のうつ病の話をちょっとしたら
うつ病は、気持ちが弱いからなるんだ!」
と言われて、笑ってしまいそうになった。
 最近では、うつ病についていろいろな場所にポスターが貼られていたり、テレビでコマーシャルが流されるほど、社会的に認知されてきた病気だが、まだこういう認識しか持てない人がいるんだなぁと正直驚いた。本人の気持ちが弱いとか、甘えとか、そういったことで片付けられるなら、誰がこんな苦しい思いをするだろうか?
 
 20年前、俺の尊敬する先輩が、うつ病にかかった。
 ものすごく正義感が強く、真面目な人だった。ある県の教師として採用され、生徒のために一生懸命働いたのだが、働きすぎると疎まれるところがあったようだ。
「みんなやる気がないんだ。生徒のためを思うより、自分が楽することしか考えていない!一緒に働いているうちに、俺はとうとう、うつ病になってしまった。」
と言われたとき、俺はうつ病の意味がわからず、
「なに気の弱いことを言ってるんですか!しっかりしてくださいよ!」
と檄を飛ばしてしまった。すごく強い人だったからだ。
 数年後、教師を辞めた先輩は、転職してちょっと症状が軽くなったところで、自殺してしまった。
 
 あのとき、今ほどの知識があれば、あんなに立派な人を死なせることは無かったのにと思うと、残念でしかたがない。
 自分がうつ病になってみると、この町にもたくさんの方が、同じ病気で苦しんでいるのが目につく。まさしく、その苦しみは経験した人にしかわからないが、やらなければならないことがあるのに、何も出来ないでいる自分を責めて、どんどん深みにはまっていく。
 一般に、過度のストレスを与えると、3ヶ月もあれば誰でもうつ病になるそうだ。ストレス社会の現代では、4人に1人が、一生の間に一度は軽いうつにかかっているという報告もある。
 うつ病は特別な病気ではないのだ。もちろんなりにくい人はいる。責任感が無く、楽天的な考えの人で、自分がやるべき仕事を人に押しつけたり、新しい環境に飛び出すことのない人には縁のない病気だ。
 俺は村上先生に
「Yoneさんはうつ病になりにくい人だ。あなたがうつ病になるときは、この世が滅びるときだ。」(失礼な!まるで俺がチャランポランな人間みたいではないか。)
と言われたことがある。Mikiが過労で倒れたときだ。
 妻の介護をしながら、自分では新規就農し、いろいろ上手くいかないこともありながら、3年ほど耐えて頑張った。
 去年の5月には、妻が当時の上司である校長の異常な行動によりPTSDになった。牧草収穫の最も忙しい時期であり、我が農場始まって以来の子牛ベビーラッシュとも重なった。自分の仕事だけでもてんてこ舞いだったときに、教育委員会事務局長や、教育長と、何度も話をしたりして大変だった。ものすごく時間をとられ、いろんな人に何度も同じ事を説明しなければならなかった。しかし、その苦労は、徒労に近い形で、何の解決もしないまま、終わったことにされてしまった。
 俺がこれまでに培ってきた常識や正義は、この町では通用しないのではという絶望感に襲われた。俺たちを最後まで応援してくれたのは、ごく少数の友人と、村上先生だった。
 
 俺のうつ病の最後の引き金を引いたのは、村上医師辞職問題だった。あれほどこの町のために尽くしてきた人でさえ、この町は受け入れることが出来ないのか?村上先生が何をしてくれたか、何をされたか、本当のことを知ろうとしないで、噂や限定的に流された権力側の話だけを鵜呑みにしてしまう人たち。信頼できると思っていた人の中にも、本当のことを知ろうとしない人がいることに激しい失望を感じさせられ、うつ病を発症してしまった。
 
 それでも町長への陳述書を書いたり、議員さんの所に話に行ったりしたが、絶望的な結果だった。
「もう理屈じゃないんだよ!北桧山国保の立て替え(改修)の利権がらみで・・・中略・・・俺もあやかりたいよ。」
と言う町長派の人の言葉を聞いたときは、この町の人の意識はこの程度なのだろうかと絶望すら感じた。
 
 ところが、この町にも正義や常識が通じる人がいた!それが、子供の健やかな成長を願う母さんたちだった。「せたなの医療を考える会」を作り、1日で4700人の署名を集めて町長のところに陳述に行ったり、
「自分の権限では開けない。」
嘘を言って逃げ回る瀬棚区に、瀬棚地区懇談会を開かせたり、勉強会を開いたり・・・。
 俺に、この町で生きる希望を与えてくれた。俺も、娘のために、この町の医療を守っていきたいという目標を持つことができた。
 今は、全くのお荷物状態だが、乳ガンの治療や育児が軌道に乗る頃には、全力でみんなのために働きたいと思った。