吉岡医師 保健師 牧柵張り ギョウジャニンニク餃子 夜遅くまで

 今日は、朝一番に診療所に行った。Mikiの乳ガンが札幌で手術することになり、育児の困難さと合わせて精神的・肉体的負担がさらに増加したので、薬の量を増やしてもらうためだ。
 現状として、どうしても動けないときに、ルボックスを時々1回に2錠飲んでいることを話した。とりあえず、コンスタンの量は同じまま、ルボックスを2倍飲むことになった。
 心療内科とは、患者のストレスの原因を話し合い、負担を軽くするものらしいのだが、
「何かありますか?」
と聞かれたので、ストレートに町長と会って何を話したのか聞いた。
「専門は何科ですか?とか、豚の飼育についての話を聞いただけです。医療の話は無かったですね。」
「・・・。」
地域医療の勉強するために、理想的地域医療の見本といわれた村上医師がいる瀬棚診療所に来てくれた医師に、専門は何科か?は無いだろう!
 町長の感覚を疑わざるを得ない。
 
 吉岡医師は、自分から医療提案をするつもりは無いそうだ。もちろん、こうしたいというアイデアはあるそうだが、それは自分が言うものではなく、町の行政や町民が考えるもので、それを見て今後の進退を決めたいと言っておられれたことは、以前書いたと思う。
 
 帰宅後、朝牛舎をやった。切り草づくりから始めなければならなかった。子牛たちは、腹を空かせて待っていた。
 
 午後から保健師さんが来てくれた。娘を自分の手元で育てたいという俺の気持ちを考慮しつつ、娘の安全や健康、俺の仕事や負担の増加など、いろいろくみ取って、あれこれ支援策を考えてきてくれた。村上医師のような名医を追い出してしまうような町だが、彼と共に仕事をしてきたすごい保健師が、まだ残ってくれているのだ。
「ずいぶん準備が出来ましたね。もうちょっとで迎えられますね?」
目標を、ゴールデンウィーク開けに向け、大仕事を済ませることになった。
 
 テレビの放送で,N保健師
「以前は、上からいわれた仕事をこなすだけだったが、村上医師と働くようになってからは、自分から考えて働けるようになった。」
といっている場面があったが、町民に対する健康講話は、保健師の方が企画して出来たものなのだ。
「具合が悪くなったら、すぐに医師の往診が受けられるから、在宅を勧めることが出来る。」
とも言っていた。医師一人体制(応援は週に半日だけ)になって、これまでのような在宅看護が出来るのだろうか?往診が出来なければ、すぐに入院させることになるとも言っていた。
 
 娘の受け入れ体制づくりは、Mikiと義妹に任せ、俺は中山への道の除雪と、雪解け水の逃げ道を作り、深く掘れた溝を均した。牧柵も繋ぎ終え、暗くなる前に牛達を放すことが出来た。電気の通り道を切り替え損ねたことに気がつき、後で切り替えに行った。
 
 義妹に、ギョウジャニンニクのありかを、だいたい教えて俺は作業を続けていた。そこら中に生えているものだという頭があるので、生まれて初めて取りに行く義妹の苦労に思いやるゆとりがなかった。途方に暮れていたところに、姪っ子がやって来て、
「去年、こっちで取ったよ。」
と別な場所を導いてくれたそうだ。俺は取り方も教えていなかった。山菜採りの本に書いてあるように、1本の株から、数枚の葉を収穫するという、資源保護に最高な取り方をしてくれた。後で台所を覗いたら、褐色の皮に包まれた茎が、生ゴミ入れに捨ててあった。
「実は、ここが美味しいんだよ!」
人にものを教えるときには、最後までちゃんと教えなければだめだ。義妹ゴメン!
 
 休憩すると、夜牛舎の作業に行けなくなるのがわかっていたので、おやつと牛乳をかき込み、糞出しに行った。Tシャツ1枚でも汗が噴き出し、体から立ち上る湯気でメガネが曇るほど暑かった。よっぽど気温が上がったのかと室温計を見たら、5℃だった。
 
 エサやミルクを途中まで終わった段階で、飯の連絡があった。仕事を中断して食べた、ギョウジャニンニク餃子とギョウジャニンニク肉団子は、涙が出るほど旨かった。
 
 頑張ってくれた義妹に別れの挨拶をした。明日早朝、東京に帰るのだ。
 俺は、まだ終わっていない子牛たちに、エサをやり、残り少なくなったEMボカシの仕込みをやった。10時半頃ようやく終わる。当然、ヘトヘトだった。
 
 明日、札幌に検査に行くはずのMiki(すごく体調が悪そうだった)が、まだなにやら後片付けをやり、沐浴の時にサブで使う洗面器や、下着にウンチがついたときに洗う、洗濯板付き洗面器の使い方を説明始めた。気持ちはわかるが、俺はもう解放して欲しかった。
「早く寝た方が良いよ。」
何度目かの進言の後、
「○×△■!」
「☆※▼□!」
子供が来るまでに、後10日以上あるのだからという思いと、自分はこれで世話が出来なくなるという思いがすれ違ったのだ